矛盾

(追記)早いもので7月になってしまいました。

気が変わったので(?)公開してしまうことにしました。f:id:kyon_scottish:20200611113220j:plain

 にゃーん。そうだよ。薬を過剰に服用すると,大抵の場合,直後の数十分間は掴み所のない安堵感に身体が包まれるような気持ちをこちらのものにすることができる。おすすめはできないけどね。ここは「メンヘラ」の日記ではない,備忘録という。この記事の内容を知りたいという気持ち以外に,何か思うことがあると言うなら,足早に退散することだな。あなたの思いをそのまま聞かせて。参考までに,過去1時間に死にたいという旨のツイートは1450件あったようだ。

人によってはこれを幸福感と表現したり,多幸感にたとえたりするようだが,私の場合はこのような言い方をするのが最も体感に近いと感じている。(「キメる」「ラリる」という俗語的な表現もよく目にするようになった。この文言を見ると静かに憤りを感じる。私が飲んだ薬をゲートウェイドラッグと呼ばれるのが本意ではないように,当事者以外の人から揶揄されながら,自分の行いをあげつらわれて気持ちが良いはずがない。)単純な思考が途切れ途切れになったまま,思うように身体が動かなくなった隙に眠ってしまおうとする。すぐに効果が切れてしまうような幸せのために,自らの身体を無駄な危険に晒す。そんなことはしない方が良いに決まっている。平生「NSAIDsを軽んじすぎている」と自覚していたはずなのに,机の上には奇しくも一回分のミルクティーが用意されている。市販薬は糖衣が施されておらず,一度に複数錠飲むのが難しいので,甘い飲み物を使って飲み込むのが常。鼻腔の奥の奥で燻っているような先ほど飲んだ薬の匂い,副作用と思しきみぞおち付近の気持ち悪さに睡眠を妨げられる。眠るように死んでしまうためには少なすぎる中途半端な摂取量に苦しんでいる自分の姿は滑稽なのだが,これは私の本質ではないという欺瞞は,どこか救われたような気分を与えてくれた。 家族には気付かれないように,親の気を狂わせないように,後遺症は残さないように,警察沙汰にはならないように,学校に相談されないように,精神科に連れていかれるようなことにならないように,明日一日を潰さないように,微量の比較的安全な化学物質を口にしたというだけ。誰でも気持ちが沈んでいるときはある,だから自分はごく普通の,正常で健康な肉体と精神を備えている。受験のストレス,そんなものは同年代の子どもに普遍的なもの。可哀想な私を装いたいのか?「病んでいる」ことをアピールしたいのか?心配されたいのか?本当は自分がおかしな行動に走る正当な意味付けを渇望しているのか,ここまで来るとなんだかよく分からなくなってくる。このようなブログを書いているのは,まだ私が文意の通じる文章が書けるということを示して,薬のせいで頭がおかしくなっていると誤解されない予防線を張るため。私が生きていない方がこの世界は最適化される。と,信じている。弟一人だけ子どもがいたら,余計な苦悩を強いることはなかった。育てるのに掛かる費用も安く収まった。自分がこうして生きていることができるのは誰のお陰だと思っているのか,家族が悲しむとは思わなかったのか,思い出さなかったのか,「どうして自殺を考えたのですか?」,バウムテスト,何のために行うのか分からないカウンセリング,「最近気持ちが爆発することはない?」,思い出したくない記憶,そんなことを掘り起こして,こんなことを書いているという事実も受け入れられられるものではなく,またしてもどうしようもない気持ちになる。基本的に怠惰だからなのか,とりあえず早く楽になりたい。このことを勘付かれないように,現実の中で意欲的に生きているふりをする。それが処世術の典型なのだと思う。子ども時代の人生というものは,パターン問題とサービス問題の連続で,それを淡々とこなしていけば良いだけなのかもしれない。人生の艱難辛苦に値する困難は除去済の,舗装された歩きやすい道。「普通に」していれば,道を踏み外すことはない。しかし,大人たちの世界は大変に厳しい。それは置いておいて。なんでそんなことをするんだ,に対しての答えは見えてきたかな。

 思えば幼時,割に身近な話題であった発達障害に始まる「何か」は私たちの教室とは別に設けられた特別学級の,なんだか自分とは様子が異なる誰かが「それ」なんだなぁと思う程度に留まっていた。発達障害も,鬱も,双極性障害も,統合失調症も,自分とは生きている世界が違う誰かにとっての問題でしかなかった。今となっては統合失調症という病名が一般的とされていて,それを精神分裂病などと言ったら後ろ指を指されて罵倒されるに決まっているだろうが,当時小学生だった私の認識は専ら智恵子抄で見かけた,晩年の智恵子を豹変させた病そのものだったせいか。今も私は,自分とは違う世界をその縁から覗き込んでいる。

 またしても余談になるが,過去「気持ちの問題」という現象に悩まされたことがある。精神的に問題を抱えている人が,彼らにとって苦境と呼べる状況に立たされたときに,周囲から気持ちの問題だ,気の持ちようだという言葉を投げかけられることは少なくないが,この場合の「気持ちの問題」というのはそれとは別種なものであったように思う。なぜかそのときから,週に何度か押し寄せる大波のような気持ちの揺れをそう呼んでいたというだけ。家族と共に食事をしたり,連れ立って出かけたりする。それが直接ストレスとなって,精神的な不調を感じていたのではなく,「今私は楽しくしているのに」「なぜか」「ここにはいないような気がする」ことを気持ちの問題と呼んでいただけである。気持ちの問題,が起こると,離人感を覚えるとともに,胸のあたりがざわざわするような気がしていた。不思議なことに気持ちの問題というものは中学校に上がって以来経験することはなくなった。これも今となっては,ぼやっと白んだ記憶の一部に収納されている。積極的に言葉にしないことによって,そのものの真の価値が保たれるということは,往々にしてあるようである。

 (早く死んでしまいたいと思う。自分に生きている価値などないと思う。(これは様々な哲学の思想が示すには人間の自然な姿であるのだが,そのことに絶望する者は多い。私もその一部である自覚がある。)これは誰しもが経験する,どこにでもある感情の一つだと考えている。顔を合わせて話せる友達に相談できる悩み事の一つが欲しい。「メンヘラ」という文化を頭からつま先まで被って,それを自分の強力なキャラクターにしてしまいたい。儚げで,夢の中で出会った少女のような風貌の中に,日々を穏やかに過ごすことができる精神の安寧が欲しい。普通に,ふつうに,それでいて個性を持って生きているのが望ましい。同化すべき所だけ社会に溶け込んで,必要な自己主張を持っていたい。ページをめくるのが止まらなくなるような,歯切れの良い文章を書きたい。)


 しんどい。病んだ。消えたい。死にたい。死んでやる。もう死のうと思う。言いたいだけ言っていれば良い。そこから立ち直ることを目標に据えるのは正気ではない,と奈落の底で喚いている気になっていれば良い。ただ一つ,死にたいと誰かに漏らすことによって,救われようだとか,そんな気持ちにはなっていないだろうな,まさか。馬鹿の一つ覚えさながらのシニリズムを心の奥底に見出して,また死にたくなった。欲望と,生きていることで否応無しに増えていく矛盾,言語化なんてする必要はない。「みんなそうなんだよ」。今頃は梅雨入りにそぐわない雨模様の予想だったのに,外はいやに晴れ渡っている。

(=^・ω・^=)最後までお読みいただき,ありがとうございました。そちらは,いかがお過ごしでしょうか。